2009年12月12日の沼田順と大谷能生②

大谷能生(吉祥寺カフェズミのレクチャー)

しばらく即興演奏を止めていた。サウンドインスタレーションとも、フリージャズとも、アートとも言えない。音楽ということばは止めようと思う。

20世紀の延長で語られる、語るのは止めよう。20世紀の音楽は録音でき個人が所有できる。音楽というものが多すぎる。国家への忠誠を図るという仕組みがどこにでも介在している。どんどんパッケージングされて流通されている。

私は演奏の現場にいて演奏して帰る。
その場にはいない人と一緒に音を出している。それは死んでいる人かもしれない。もう二度とやれない、その場に存在しなくなることで、ある事象の意味がはっきりすることがある。本来は、フォームを持とうとするのが音楽なのだけれど。

かつては、レコードとしての音楽があった。流行の先端に乗り、それを所有できる喜びがあった。失禁するくらいの。

邪悪な欲望、20世紀的な娯楽と知性を(私は)受け継いでいる。父親世代の買って所有する喜びを知っている最後の世代だ。

世の中には、売買できるもののほかに、買収不可能性は絶対にある。

私の中で売買できるものと、買収不可能性の両方が内在している。つまり、私は両方の活動をしているのだ。

買収不可能性というものは、売買可能なものが目の前に厳然と立ちはだかっているからこそ、見えてくるのだ。



休憩時間中の筆者の問い:「買収不可能性」は個人的なものか普遍的なものか?

大谷氏の答え:あくまでも個人的なものとして話した。個人にあるということは、他の人にもあることだと思う。