Oslo-Tokyo Connection 1 2011.2.5








見どころは、ガールズバンド「にせんねんもんだい」の姫野さやかとPaal Nilssen-Loveの一騎打ちだった。

ラッセ・マーハーグ(ターンテーブル他)が間に入ったのだけれども、ドラムバトルには打ってつけの音だったと思う。前のセットの秋田昌美とのデュオは、秋田の音が大きすぎて良く聴こえなかったけれど、このセットでようやく全貌がつかめた。ドラムの音と当たってしまうのではと思っていたが、実際に聴いてみると自然な感じで融合していた。

にせんねんもんだいは、5年前に東高円寺のU.F.O CLUBで聴いており、姫野のドラミングは印象に残っていたけれど、正直なところ、Paal Nilssen-Loveとのバトルの必然性には疑問があった。にせんねんもんだいは、シンプルなロックだったから、ノルウェーインプロ界の複雑さや重厚感との相性が心配だった。

最初の20分くらいは、予感が的中した。

姫野のドラムの音が聴こえないほど、Paalのドラミングは壮絶だった。

一旦ドラミングを止めた姫野は、その後、拍数を置くようになった。まるで、タイミングを見計らっているようだった。

姫野は小柄で、Paalと並ぶと何もかもが半分くらいの体格だったから、音の大きさと重さが全然違ってしまう。

音の数を減らした姫野に合わせるように、Paalがそれまでのバーサタイルなドラミングから、ロックっぽいアプローチに変えた。

姫野はこれに応じて、次第に本領を発揮して行った。だんだんと音の輪郭がはっきりし、迫力のあるドラミングになった。Paalの手数は減ったが、音圧は変わらなかった。このドラミングに応じるのは、大変だったと思う。だが、姫野はやりとげた。

Paalがタムタムに強い1打を浴びせ演奏を一瞬にして止めると、全員の演奏がぴたりと止まった。

奇跡的だった。

それぞれの音を良く聴いていたのか、呼吸が合ったのかは分からない。

Paalは演奏が気に入ったようで、姫野の肩を抱いてとても喜んだ。

一人ステージに残ったラッセは、深々と観衆に礼をした。









2007年に同じ会場でペーター・ブロッツマンのライブがあったときに、ゲストとして参加したのが坂田明だった。そのときのドラムスもPaalだった。

私は1980年代に坂田明の演奏を聴き、その音の壮絶さを味わっていたため、この4年前の演奏を物足りなく感じた。自分で言うのもおかしいけれど、私はミュージシャンのライブ演奏には概ね好意的で、滅多に批判はしたことがない。

だが、このときは、敢えて批判した。

ひとたび彼の演奏の凄さを知れば、その演奏が脳裏にこびり付いてしまい、そうした体験はある種のひな形(type)になるからだと私は思っている。

今回の演奏は、鬼気迫るものが感じられた。

とても良い演奏だったと思う。インプロヴィゼーション=即興演奏にも関わらず、フリージャズ的な感覚を覚えたのは、坂田明の存在が大きかったからだと思う。

もちろん、私にとって、インプロヴィゼーションとフリージャズの区別を「音楽的」に説明できるわけではないが。



八木美知依も2007年の同じ会場で演奏しているが、PAの不調で演奏が良く聞こえなかったのを覚えている。私の中では、前評判が高かったため、少なからず失望した。

今回は最前列だったため、弦をアタックする音やきしみさえも良く聴こえた。 彼女の演奏は、私にとって「発見」だった。筝の音がこんなにもインプロとマッチするとは想像していなかったから、その驚きはなおさらだった。

八木とPaalのパルスが衝突したときの演奏は、すさまじいものがあった。二人は相反する要素があって衝突したかと思うと、実は一体化している、そんな不思議な感覚にとらわれた。高いテンションとボリュームを持つ演奏だった。

2人だけの演奏のときには、フリージャズの要素は希薄だった。


終盤になって坂田明は、あえてホーンを持たずに、シャウトした。

それは極めて自然な行為(=演奏)だった。

どの局面でも、まるでリハーサルを重ねたかのような演奏だった。初めて見た人は、譜面があって何度も打ち合わせしたライブだと感じていたと思う。







秋田昌美ラッセ・マーハーグのDuo。

どう表現していいのか分からない。

先に書いたとおり、本当にラッセの音が聴こえなかったのだから。

後半に秋田が自作のキーボードのようなギターのような機械を演奏すると、ようやくラッセの音が聴こえてくるようになったけれども。

ただ、これがライブ演奏なのだと思う。

聴こえる音も、消されてしまう音も、現実であり非現実でもある。

真実であるかどうかは問われない。

それは、彼らの内部で創造され育まれた音だからだ。