菊地雅章 Sunrise (ECM) ②
菊地雅章のインタビューがHMVから発表され、sunriseについての言及のなかで、ポール・モチアンが相当大がかりな編集作業を行ったことが明らかになった。菊地雅章の話によれば、このセッションでは菊地とトーマス・モーガンの息が合わず、リリースが決まっていたテープが菊地にとってまったく満足のいくものではなかったが、ポール・モチアンの編集の力で菊地が納得する水準に達したということだった。
このことを知ってしまったため、筆を進めることをためらってしまった。
もちろんジャズの世界においても、たとえばマイルスのCBSの作品を評価するためには、テオ・マセロの編集手腕を前提にするのが当たり前なので、批評にまつわる障害になるとは思えない。
個人的な動機付けが損なわれたのは確かだが、そうは言っても、ごく私的なブログなので、気楽に考えればよいのだと思う。
数十回聴いた菊地雅章のライブから感じたことは書ききれないほどあるが、とりわけ、ピアノトリオというフォーマットにおいて、彼ほどベースとドラムスの出来具合に神経質な音楽家は稀有だという点を強調したい。
実際、ピアノトリオでのライブの最中に、ベース奏者を怒鳴りつけることも珍しくなかった。
リハーサルを経たうえでのユニゾンは予定調和としての音楽的な構成を意図するが、リハーサル無しでのそれは感情や感覚に基づいた産物であると、リスナーの私は考えている。
私が経験した菊地雅章のピアノライブでは、即興の合間にリハーサルなしで自然発生的に生じるベースとのユニゾンが聴かれることはまずなかった。これについては、菊地雅章の真の熱狂的ファンは異論を唱えるかもしれない。
たしかに、1991年に高円寺ジロキチで行われたライブ(峰厚介ts、村上寛ds、米木康志b)では、米木康志のベースとのユニゾンが何度も試みられた。しかし、これは稀な類のものだと思う。
CD媒体では、Feel You(キングレコード)のIt never entered on my mind中に、ジェームズ・ジナス(B)とのユニゾンを聴くことができるが、リハーサルの有無を確認することはできない。いずれにせよ、1990年代以降における菊地の作品では、非常に珍しいことだ。
テザード・ムーンでのゲイリー・ピーコックは敢えて菊地のピアノと音を合わせることはしていない。これはサントリー小ホールで行われたテザードムーンのライブでも確認したことだ。ゲイリーは、菊地のピアノのカウンターメロディ(対旋律)を自由奔放に、またいかなる音楽的な拘束をも受けないかのごとく提示するか、ルート音を的確にゆっくりと1音1音示すのが常だ。
ゲイリーはタイムキープを最小限に、つまりルート音を的確にゆっくりと1音ずつ繰り出すことで、菊地のピアノのためのスペースを作り出している。あるいは、ゲイリーが長い音階を自由自在に繰り出すことによって、菊地のピアノの対旋律が構築され、全体が光り輝きだす。
これは即興の現場での奇跡的な音楽構築の過程だ。
テーマパートはいうまでもなく、即興の部分においても、ゲーリーはこの方法を実践し成功させている。
それに対してトーマス・モーガンは、世評通り、音の数が少ない。
ただ、このことには注意を払う必要があると思う。
Counter current(SONY)において、菊地、トーマス・モーガン、ポール・モチアンの3人は共演しており、今回が初めての録音ではない。もちろん、それ以外にもNYのライブスポットなどで共演をしていただろうと推測できる。
Counter Currentでは、非常に鋭角的で、直線的に流れるベースラインを聴くことができる。決して饒舌ではないが、かといって寡黙でもない。すべてに無駄がなく、これ以上削ぎ落とすことが不可能なベースの音だ。
この作品では間違いなく、ポール・モチアンとともに、ジャズ特有のバウンスするリズムを醸し出している。
ところがSunriseでは、トーマス・モーガンはそうした演奏をあえて避けているように感じる。ひとつひとつの音を選んでいるのだが、オーソドクスな解決方法を回避しているかのようだ。菊地が提示した音にフィットするような音を敢えて避けている。
これはとても興味深い現象だと思う。
即興演奏においては、ベースとドラムスが先陣を切って力強く速いリズムを作り出し、ホーンプレーヤーやピアノなどがこれにインスパイアされて、それまでとは新たな局面が展開されることがままある。
Sunriseにおいても、そうした場面がある。7曲目においてトーマス・モーガンとポール・モチアンが4ビートを刻む箇所だ。数小節進んだところで、トーマスがビートを刻みながら音をどんどん外していく。それまでジャストの音だったのが、次第に外れた音になっていくのを聴くことができる。この音の外し方は、俗に言われるスケールアウトとか、そういった類のものではない。彼は独自の審美眼で、音を外しながらリズムを構築しようとしている。Sunrise全編において、そうした姿勢が感じられるが、そのなかでもこの7曲目は彼の考え方を象徴しており、「ジャズ的に正しい音」から逸脱・乖離する彼独特の音作りの過程を垣間見ることができる。
こうしたトーマスの試みは、Sunriseのトリオ演奏に大きな影響を与えていると思う。
菊地雅章のピアノは、耽美的な要素や現代音楽的な色合いが強い。
これに対してトーマスは、軌を一にせず、まるで管楽器が入った60年代のアメリカのフリージャズを彷彿とさせる弾き方をする。
唯一例外なのが、1曲目のBallad1におけるピアノとのユニゾンだ。この曲では、菊地とのユニゾンが頻繁に聞こえる。
この曲の音空間は、Bobo Stenson、Anders Jormin、Jon Christensenのピアノトリオを連想させる。
リハーサルなしなので、菊地のピアノに合わせるトーマスの鋭利な感覚が容易に想像できる。
彼の音の外し方は、意図的なもので、トーマスが対峙する特定の音楽の構築として揺るぎがないものだと思う。
菊地雅章、ポール・モチアンの二人がピアノトリオとして組んだのは、これまでゲーリー・ピーコックが加わったテザード・ムーンだけなので(以前、チャーリー・ヘイデンとのトリオの構想を菊地自身が披露していたが、ゲーリーとの関係を重視するために、この話は流れたようだ)、菊地本人の満足の度合いは別として、sunriseのトリオとテザード・ムーンとのコントラストは菊地、ポールの二人にとっても鮮烈だったのではないだろうか。
ポール・モチアンが逝去したことによって、このトリオでの演奏はもはや不可能となってしまった。
Sunriseから発展した演奏を聴きたいと思ったが、それは叶わない願望となった。
今でもサントリーホールで聴いた最初で最後のポールの演奏が耳に残っている。
開演前に、私の隣に座っていたピアニストの南博が同伴者にこう語っていた。
「シンバルがとてもシンプルなんだけれど、だれにも出せない音だよ」
確かに、ライトシンバルに触れた長い残響はだれにも出せない音だった。
それは数少ない音楽家だけに許される永遠性を兼ね備えたものだった。