Hugues Vincent 岩瀬久美 渡辺愛 江古田フライングティーポット





































Hugues Vincent(cello)、岩瀬久美(alto sax、clarinet)、渡辺愛(パフォーマンス)2月17日 江古田フライングティーポット

現在、台湾・フランスを拠点にしているHugues Vincentがたびたび日本に来て演奏するようになったのは、たしか2007年くらいだったと思う(もしかすると、それ以前に来日していたのかもしれない)。ともあれ、ライブ会場で配られるフライヤーの告知は何度も目にしていたのだが、聴く機会に恵まれなかった。



フライングティーポットに来るのも本当に久しぶりだった。私の記憶では、山本達久と千住宗臣のドラムデュオ等を聴いたのが最後だったと思う。



生の演奏に関する事前の情報が一切なかった分、なおのこと期待が高まった。



休憩をはさんで、前半が、Hugues、岩瀬、渡辺それぞれのコンポジションでめいめいのソロ演奏、後半は(記憶が正しければ)コンポジション(Hugues+岩瀬)、渡辺のモチーフ提示・Hugues+岩瀬による即興、コンポジション(Hugues+岩瀬)のプログラムだった。




最初のHuguesのコンポジション/チェロソロ演奏は、摩擦音・(音楽的な意味での)雑音に彩られていた。チェロに関しては、坂本弘道、森重靖宗しか生演奏を聴いたことがないので正直なところ視聴経験に乏しい。とはいうものの、Huguesの演奏が特殊な奏法であることは理解できた。



チェロの場合、弦に当てる弓の位置は胴体に対して直角にするか、もしくは、地面に対して垂直にするかのいずれからしいが、Huguesの弓の当て方は弦の上にほとんど寝かせるような感じだった。物理的に弓と弦が擦り合う音がする。そのなかでわずかに聴こえてくる倍音、もしくは擦り合う音と倍音の区別がつかないような音がした。弦を手のひらでタッピングしながら、弓でにごった音を出すと、音の輪郭のありかが余計にあいまいになっていく。



ふと我にかえると、Huguesの前には楽譜がある。あらためて、これが即興ではなくコンポジションであることを認識する。



岩瀬久美のコンポジションは、オクターブキーを指で押さえた際のカラカラ、チリチリというノイズ、トゥルルルルルという無音に近いタンギングノイズ、あるいはブレスノイズなど、伝統的なジャズやクラシックあるいはポピュラーではどちらかといえば消極的な意味にとらえられがちな音で満ちていた。ヨーロッパ系の即興音楽家・リスナーが好む奏法だと思う。


音量を一定に保ち、音の出力を自在に制御する巧みさが際立っていた。音を発するときにも、意図的に楽器を鳴らしきることは決してなかった。後述するが、そこが最大のポイントだったと思う。




渡辺は、ラップトップのPCをメインにして、フィールド(野外)で集音した音声を繋いで編集したものを主題とした曲を披露した。表面の粗さが効果的だと感じたが、渡辺は演奏後にノイズが入っていて満足できなかった感想を漏らした。



エレクトロニクスには疎く論評する技能も持ち合わせていないのを承知で記すならば、私にとっては、ざらついた音の表面がとても印象的だった。表層的な整然さは耳に心地よいが、深く聴こうとする気がしない。無意識にそのまま音が流れて行く。しかし、表面にノイズがあれば、その音の底にあるものに関心が行き、より良く聴こうとするような気がする。





デュオ、トリオの組み合わせとなった後半、技巧的な観点から解き放たれて、演奏家が発する音の生成を純粋に感じることができるようになった。




Hugues、岩瀬、渡辺のトリオ演奏では、渡辺の提示する電子音に対して、Huguesが自身の楽器であるチェロで合わせるとき、電子音に対しておそらくは数オクターブ上下した音を奏でた(1オクターブ、あるいは半音のように感じられた時もあったが本当のところは分からない)。ときには電子音、前後して、チェロの音が通奏低音のように感じられる。そうこうしているうちに、ふたつの音が交叉していく。



最後のデュオの曲目で、Hugues、岩瀬は演奏を始める前、1分ほど下を向いて瞑想した。



その後、Huguesと岩瀬は、双方の楽器をこれまでになく鳴らしきった。



Huguesがチェロを抱えるトリッキーな奏法があったにせよ、ふたりの演奏は総じてそれまでの微音とは比較できないほどの音量と音圧だった。



目を閉じうつむいてチェロを演奏していたHuguesは、隣の岩瀬に対して音量をあげるように求める気配を感じさせた。これを素早く察知した岩瀬が、これ以上の音量が不可能なくらいの音を発していった。



Hugues のチェロも、岩瀬のアルトサックスも伝統的な奏法だった。




ごく個人的な解釈が許されるならば、Hugues、岩瀬による最後のコンポジションにすべての要素が収れん・昇華していくライブ構成だったように思う。



器楽の観点からみると、最初にチェロ、クラリネットの双方において、フラグメンツ・断片が提示された。時間を経過するごとに、だんだんと音の輪郭がはっきりとして行った。そして、最後のコンポジションでは古典的・正統的な奏法を貫いて行くことによって、音そのものの存在をはっきりと確認することができた。無論、最初のほうの演奏と最後の演奏は、まったく異なる性質のものなので語弊があるのは承知している。



しかし、すくなくとも最後の演奏の正統性が、効果的で、なおかつ劇的な表現と展開を演出したことは否定できない。



プログラムの構成の妙(たえ)が光るライブだった。


機会があれば、ぜひとも再び聴きに行きたいと思う。