菊地雅章 Sunrise (ECM) ①




菊地雅章のことをブログに書くのは5年ぶりだ。


(このブログは一昨年始めたものだけれど、その前にも同じようなブログを書いていた)

これまで2度ほど、sunriseについては取り上げたけれど、作品そのものについては触れたことがなかった。

1991年の「Thethered Moon」(キングレコード)以来、菊地雅章が新作を出すたびに購入して聴いているけれど、聴いた後すぐに公で語れるほど作品を良く理解できたことはなかった。

Sunriseを聴いたのち、再び菊地雅章のピアノ作品を聴き直した。そのうちの1枚にソロピアノの「Attached」(NECアヴェニュー:1989年)があった。この作品は1990年代に、ジャズピアニストの南博が高く評価したレビューを残しているが、当時の私には正直なところ良く理解できなかった。

1か月前に再び聴いてみると、自分のなかにすんなり入ってくるのが分かった。

*この作品は、彼が本格的にジャズに回帰してピアノ演奏に力を入れ始めるころ(1980年代後半)に録音されており、その前後にゲイリー・ピーコックポール・モチアンとともにピアノトリオ(テザードムーン)を始動している。

初めて聴いてからほぼ20年経った今、「この作品は、それ以降展開される諸作のプロローグではないか」と考えるようになった。現在までに発表されている主だった作品の要素をあらかじめ抽出しているような気がした。

*作品の要素というのは、彼のピアノのひな型(type)を指すが、これについては後述したいと思う。

そういうわけで私の場合、菊地雅章の作品を理解するには何度も何度も聴いてみる必要があった。5年、10年あるいはそれ以上の間隔を置きながら味わってこそ、はじめて本質に到達できる奥義があった。

かつて菊地雅章が披露したエピソードがある。

生前に親交のあったギル・エヴァンスのアパートを訪れて、意欲的に取り組んだソロピアノのデモテープを聴かせたところ、まったく反応がなかったが、しばらくしてから、ギルから連絡があって、「繰り返し聴いたら、とても新しいということが分かった」旨の感想が伝えられたそうである。
*ギルが逝去した後に、この作品はone for Gilとして発表された。ギルの晩年、菊地とギルは互いのスタジオを行き来して、音楽づくりをしていた。

ジャズの歴史に名を残すギル・エヴァンスがこのとおりなので、一リスナーの私についてはなおさらのことだと思う。


さて、Sunriseを評価する際に、現時点での私の関心事は二つある。ひとつは、録音についてであり、もうひとつは過去の一連の作品の中でどのように位置づけられるかである。

チャールズ・ロイドのECM初録音「Fish out of Water」(1989年)は日本のジャズジャーナリズムにおいては、「コルトレーンマナーをECMで再現した意欲作」との評価を得た作品であり(これについては異論があるだろう)、それ以降「Canto」(1999年)に至るまでの間、チャールズ・ロイドの作品はECMの「本拠地」であるノルウエーのレインボウスタジオで録音されている。
録音はずっと、ECMの代表的なエンジニアであるJan Erik Kongshausだった。それが、「Canto」の次作「Voice in the night」ではJames Farberに替わった。録音はNYのアバタースタジオである。

正確を期するために「ECMの真実」を参照して確認すべきだと思うが、おそらくは、James Farberが録音を担当した初めてのECM作品ではないかと記憶している。


私の記憶が確かならば、これと前後して米ユニバーサルのECMへの資本参加が話題となったはずだが、チャールズ・ロイドの作品制作にどのような影響を与えたかは知る術もない。

すでに周知のとおり、Sunriseの録音はアバタースタジオにおいて、James Farberが手掛けた。

James Farberは、ルディ・ヴァン・ゲルダー(RVG)を信奉する技師で、マイケル・ブレッカージョシュア・レッドマンなどコンテンポラリーなジャズを数多く手掛けている。

James Farberが手掛けたピアノ作品を聴きこむ必要があると思うが、あくまでもSunriseだけに焦点を当てると、やはりRVGの影響を感じてしまう(RVGへの信奉もコンテンポラリーなジャズでの実績も後で調べて分かったことなので、以降の私見は先入観のない純粋なものだ)。

菊地雅章のピアノの特徴である音の伸びは抑制されており、倍音の響きは強調されていないが、相当な完成度のスペースを感じさせる。平均的でバランスが取れたピアノ録音だと思う。ブルーノート時代のRVGというよりも、ECMのNew SeriesをRVGが手掛けたらこうなるだろうというような想像を掻き立てる。ジャズというよりは現代音楽のピアノの音を連想させる。

また、1曲目のBalladにおけるベースとのユニゾンの部分は、とてもコンテンポラリーな響きだ。ユニバーサルレーベルで発表しても違和感がない音の作りだと思う。

菊地雅章のピアノを生で聴くたびに、他のジャズピアニスト以上に倍音の響きを感じる。

9年前に神田のTUCで行われたピアノソロのライブでは、鍵盤を押し切らずに軽く触れるだけで創り出した倍音を披露した。

キングレコードソニー、メディアリンクス、それにW&Wの諸作品での菊地のピアノの響きは、エコー処理によって再現された音ではなく、菊地雅章のピアノ技術そのものの結実なのである。

ライブで聴けば、菊地のピアノはとてもタッチが強いのが分かる。ピアノの芯を捉えておりピアノそのものが良く鳴る。日本のクラシックのピアニストの一部では、菊地のピアノの鳴らし方を高く評価する声がある。たとえ、お世辞にも良く調律されているとは言えないライブハウスのピアノでさえも、菊地はピアノを鳴らし切る。強く押したときにも、軽く触れたときにも、それぞれに異なる程度の倍音が鳴る。これらすべてが菊地のピアノ演奏を特徴づけている。

翻ってSunriseを考えると、ピアノの強弱は平準化されており、強弱による微妙な倍音は影を潜めている。これをどのように評価すれば良いのであろうか。

菊地が円熟味を増していった時期を考える上で不可欠なのがW&Wの存在であるが、代表的なエンジニアJoe FerlaとAdrian von Ripkaともに、菊地の倍音の再生に腐心していたと思う。


一番端的な例が「Play Kurt Weill」の5曲目の「It never was you.」だ。1:45の録音時間の中に菊地のピアノのサウンドが凝縮されている。倍音が次の音にほどよくかぶるように菊地が感じ取る間(ま)の取り方やペダルの踏み方、その音さえも忠実に再現している。

ここで話が大きく逸れるが、良い機会なので、巷間指摘されているポール・ブレイとの相似性について触れたいと思う。日本人のジャズプレイヤーの間ではそうしたことはないのに対して、日本のジャズジャーナリズムからは頻繁に相似性が指摘される。

It never was youは、そうした解釈に対するアンチテーゼとなり得る。

この曲を聴いた後で、フランスの代表的なジャズピアニストであるStephan Olivaの作品「MIROIRS」の8曲目「Moon River」を聴いてもらいたいと思う。

この流れは武満徹にまで遡ることができる。

ためしに、武満が逝去した1996年にクラッシックピアニストのPeter Serkinが録音した「Litani」(Peter Serkin plays the music of Toru Takemitsuの1曲目)を聴いてもらいたい。

菊地の間(ま)が、武満徹の作品と相似性があることが理解できるだろう(菊地と武満は若いころに親交があり音楽上のアイデアを交換していた)。

菊地は、武満が亡くなった直後に、「Possessed」を録音しており、この作品の間は武満の間(ま)と完璧に重なり合っている。

私は、実はポール・ブレイの信奉者で、来日時には2度もライブ会場に足を運んだほどだ。

確かなことは、ポール・ブレイの間は独特で、多くのピアニストに影響を与えている。ECMの諸作では、ギリシャのジャズピアニストのVassilis Tsabropoulosの「Achirana」の1曲目(タイトルと同名)はその最たるものだ。

ポール・ブレイは、いくつかの間のあとに、長く速いパッセージを弾く。バーンアウトという表現が適切か分からないが、彼の中でのエネルギーの爆発のようなものが必ずある。Achiranaもそうした展開を見せる。

だが菊地にはそれが皆無だ。そこに大きな違いがある。


話を元に戻したい。

W&Wは、菊地のピアノのサウンドをCDという媒体において再現しようとしたのに対して、ECMは敢えてこれを避けたように思えてならない。

ECMが菊地のピアノサウンドを再現したならば、それはW&Wとなんら変わらない作品となる可能性があったはずである。

さらに突き詰めると、W&Wとの比較以前に、それはECMサウンドではなくなることを意味する。

しかしながら、ECMサウンドであるために、Jan Erik Kongshaugが録音を担当すると、それは完璧に菊地のピアノのサウンドを否定することになってしまう。ECM独特のピアノの響きが、菊地のピアノの響きを相殺する可能性が高いからだ。

そういうことを勘案したうえで、録音についてはJames Farberが担当することになったような気がしてならない。