Galactic Abyss(亀川千代+内田静男+ASTRO)  ニーハオ!  マンホール  IN THE SUN  GOUPIL AND C 小岩・bushbash

久しぶりのライブ鑑賞だった。



年末は多忙で時間がなかったので、この日は幸運だったと思う。
(12月30日の灰野敬二のライブにも行くことができなかった)




12月28日に小岩・Bushbashで下のようなバンドが出演するというの
で、すぐに予約を入れた。



 RUINS(吉田達也 + 増田隆一)
 Galactic Abyss(亀川千代+内田静男+ASTRO)
 ニーハオ!
 マンホール
 IN THE SUN
 GOUPIL AND C



ガールズバンドの“ニーハオ!”がステージを終えた後、カメラが壊れているのに気付いた。残念だったが、次の“マンホール”と“Galactic Abyss(亀川千代+内田静男+ASTRO)”の写真撮影は不可能だった。




買い替えたばかりのスマホのカメラ操作を、その場でようやく覚えて、トリを務めた“RUINS”のときには写真を撮ることができた。



即興と思われる“Galactic Abyss”以外は、ロックバンドだったため、いつものような長文は控えたいと思う。











GOUPIL AND C

GOUPIL AND Cは、ものすごくエネルギーがある、2ピースのロックバンドだった。この馬力はどこからくるのだろうか。猛進するなかにも、陰影がある。シャープでしなやかだ。日本のバンドなのだが、どことなく英国的な香りがする音だった。









IN THE SUN

キーボード、ドラムス、ギター兼エレクトロニクスの3人編成のバンド。電子音に、激しいドラムスがリズムを刻み、ニューウェーブを思わせるギターが絡む。都会的でクールな演奏かと思いきや、無機的なエレクトロニクスの渦のなかで、激動がほとばしる。とても新しい感覚だ。












ニーハオ!

ドラビデオのブログを読んでいるため、このバンドのことは少し知っていた。(米TZADIKレーベルからもCDを出している)けれど、この陽気な高揚感には、本当に圧倒された。やはり、生演奏を聴かないと分からないことがたくさんあると思う。知らず知らずのうちに、演奏にのって体を揺すっていたら、カメラが壊れた。本格的なロックギターに対して、ベースがものすごくグルーブする場面も恰好よい。






マンホール

アコースティックギターエレキギター、ドラムスの3ピースバンド。味のある歌唱力にタイトなエレキギター・ドラムス陣営がバックアップしている。エレキギターはときどきベースパートを担当しているような気がするうえ、ドラマーの手が良く動く。演奏が次第に白熱し、ドラマチックな展開を随所に見せる。ステージングも魅力だ。







Galactic Abyss(亀川千代+内田静男+ASTRO)


ステージ向かって右側に、内田静男が陣取り、左脇には亀川千代が座り、ともにエレキベースを奏でた。ASTROのrohcoが、ヴィオラ?バイオリン?と思しき楽器にスマホを接続している。ASTROの長谷川洋は、器具類を操作して、ノイズを繰り出した。内田静男は、ベースギターを弾くというよりも、ベースギターを使ってどのような音が出るのかを試していたように思う。これに対して、亀川千代は、ひたすら速弾きをしていた。もう少し長く聴いていたかった。

遠藤隆太朗 本田拓也 Carlo Costa 八丁堀・七針





















遠藤隆太朗(g)、本田拓也(double bass)、Carlo Costa(ds) 11月21日 東京・八丁堀 七針


随分と前から八丁堀・七針に行きたいと思っていたのだが、ようやく念願が叶った。

 
遠藤隆太朗のソロギターを一昨年に聴いて、印象に残っていたこともあり、自然に足を運んだという感じだった。遠藤隆太朗のスケジュールを見る限りでは、ギター、コントラバス、ドラムスのトリオ編成は珍しいのではないかと思う。


会場の七針はとても居心地がよかった。地階にあるが、あたたかみのある内装と照明のおかげでとても寛げた。


そのせいかもしれないが、この日のライブは、いつもより「感じる」ことができたように思う。音に身を委ねると言って良いものかどうか分からないが、言葉にするのにためらいがある類の「感覚」というものに身を託す代わりに、日頃から心掛けている「演奏を記憶する」という作業を半ば放棄することになった。



遠藤隆太朗は、フェンダーテレキャスターのようなギター一本を携えていた。後ろには、備え付けと思われるフェンダーギターアンプがある。エフェクターは使っていないと思う。少なくとも足元にペダルは見当たらなかった。フェンダーギターアンプには、おそらくディストーションのつまみがあったと思うが、これを使っている感じはしなかった。フルアコセミアコと違って、本体に空洞のないソリッドギターピッキングしてもほとんど響きがないのは周知の事実だと思うが、フランジャーやコーラスなどのエフェクターさえも使わなかった。ギターのピックアップも特殊なものではないようだ。ともかくアンプは通してあるにせよ、ほぼ生音に近い状態で演奏した。



ロックやジャズの押さえ方にはないような和声が展開されたが、ナイロン弦の擦れる音がアンプから漏れるように聴こえるので、音そのものの輪郭は曖昧で認識するのがとても難しかった。いや、仮に認識できたとしても、和音を言い当てることは私には不可能な話なのだが。



これとは対照的にコントラバス本田拓也はライブの前半で、エフェクターのペダルを操作して電気音を繰り出した。うまく表現できないが、キーボードのような音色がした。爆音とは言わないまでも、かなり大きな音がしたため、ギターの音が聴こえなくなった。遠藤隆太朗は、ギター本体のボリュームツマミを操作して音量を上げた。それでも、コントラバスの電気音が勝った。



これまでの僅かながらのライブ視聴経験からみれば、エフェクターがかかったギターの大音量の合間で、低音を保つコントラバスの音量が陽炎のように空を舞う、そんな光景を目にすることが度々あったけれど、その逆は未経験だった。だから、とても驚いた。




ドラムスのカルロ・コスタは、様々な器具を取り替えながら、弧を描くようにしてスネアの縁を擦った。ブラッシングを交えた音の数々は、とても色あざやかな佇まいを想起させた。



3人がほぼ同量の音で演奏した時には、チェンバーミュージックの趣が感じられた。電気増幅が強調されないためだろうか、きわめて器楽的であり、雅やかな室内重奏楽の風貌も併せ持っているように感じられる。



調和がある。けれども、それは予定されたものではない。しかし、それは調和と呼ぶもののように感じられる。だが、即興音楽に構築性が求められるという認識に立つならば、構築されたものから逸脱しようとする試みを汲み取ることができる。



カテゴライズすると貧してしまうのが音楽だとするならば、表現に窮してしまうのかもしれない。それを承知で敢えて表現すると、彼らの音楽を聴きながら、インスタレーションという用語を思い浮かべた。もちろん、前述の器楽的という評価と大いに矛盾するのを知りながら、この専門用語を使いたいと思う。スタイリッシュな現代アートの表層を抜き出した言葉尻だけでは捉えられない何かがそこにはあった。



器楽的な調和を持った、この室内重奏楽は、オブジェの様相を呈した硬質な音の塊を内包している。



後半になると、そこから乖離する場面が何度か見られた。



コントラバス本田拓也がフォービートを刻んだ。しかし、他の二人は応じなかった。
カルロ・コスタがフォービートのリズムを叩いた。
二人は互い違いにフォービートを刻んだ。
しばらくして、コントラバスとドラムスがフォービートになった。


私の目と耳で判断した限りでは、ギターの遠藤隆太朗はフォービートのリズムに乗って弾くことはなかった。遠藤隆太郎はジャズイディオムも熟知していると思うが、敢えてその方法は踏襲しなかった。



そにうちに、カルロ・コスタは堰を切ったように強烈なドラミングを披露した。激しく叩くというアクションは微塵も見せずに淡々と演奏しているのだが、音圧のある力強い音が瞬時に会場を包み込んだ。やがて爆音に近い音に達したところで、本田拓也と遠藤隆太朗が力を入れて対峙した。



この場面は二人が想像していたよりも長く続いたらしく、本田拓也がカルロ・コスタの方を振り返った。そのうち、遠藤隆太朗もカルロ・コスタの方をうかがった。


ほどなくして遠藤隆太朗は、力強いカッティングをした。この音は高柳昌行あるいは大友良英を連想させるものだった。



終演が近づく頃には、音量ははるかに小さなものになった。


カルロ・コスタは他の二人の演奏に耳をすましていた。


本田拓也が道端に置いていくように音を出した。遠藤隆太朗も、合いの手を入れるように音を置いていった。そして終演となった。




いつも通り、色々と好き勝手なことを書き連ねてしまったが、一番肝心なのは彼らの音楽に心地良さがあったということだった。


いつか再び七針を訪ねたいと思う。

もちろん、遠藤隆太朗はじめ他メンバーの今後の活動にも注目したい。




澤登秀信   ひいらぎキャンプ場


澤登秀信 9月10日 ひいらぎキャンプ場


澤登秀信について書くのは、おそらく3年ぶりではないだろうか。

ライブを見たのは同じ場所で一昨年前以来となった。



澤登秀信は、高円寺の稲生座、鶯谷What’s up、八王子シネマクラブなどで定期的にライブを行っている。



その合間をぬって年に2回ほど、郷里の甲州でライブを行う。



会場のキャンプ場は、入会地らしい丘陵の林を切り拓いたようなところにあるため、ナビがあやまって認識してしまい前半が終了したころにようやくたどり着くことができた。道案内無しで行くのは初めてだったからだ。



後半は、サイモン&ガーファンクルなどのカバーを数曲披露した。




そののち、「やまなしへ帰れし」「強引にマイウエイ」「石垣積みのおじいさん」「リラの花」「さよなら」など、ファンにはなじみ深い歌が披露された。



やはりオリジナルは特別だ。



リラの花は、25年ほど前の作だと思うが、これには思い出がある。20数年くらい前に、川崎クラブチッタで澤登秀信のライブがあったときのことだった。対バンは、当時の会場の雰囲気をあらわすように、ハードロック、ビジュアル系パンクなど、どう考えても澤登秀信のバンド(vo/gt、gt、elb)とは趣が異なっていた。




澤登秀信バンドの番が来ると、スタンディングで満員の観客は待ち構えたかのように、ステージにそっぽを向いて私語を始めた。


そして、数曲歌った後、澤登はリラの花を演奏した。


そっぽを向いていた観客は、ステージにくぎ付けになった。熱心に聴き始めたのだった。



曲が終わった後は、会場が大きな拍手に包まれた。



話が逸れてしまった。


ギター一本で勝負したこの日のリラの花は、とても良かった。


「石垣積みのおじいさん」や「山梨へ帰れし」は静かで情感に訴えてくる。



「強引にマイウエイ」は、1stアルバムに収録されており、ギター、ベース、ドラムスのリズム隊をバックに吹き込んでいる。これをギター一本でさばいたら、あたかも別の曲のようになっていた。




このキャンプ場での来年のライブが決まったようだ。機会があれば再び聴きに行きたいと思う。

Hugues Vincent 岩瀬久美 渡辺愛 江古田フライングティーポット





































Hugues Vincent(cello)、岩瀬久美(alto sax、clarinet)、渡辺愛(パフォーマンス)2月17日 江古田フライングティーポット

現在、台湾・フランスを拠点にしているHugues Vincentがたびたび日本に来て演奏するようになったのは、たしか2007年くらいだったと思う(もしかすると、それ以前に来日していたのかもしれない)。ともあれ、ライブ会場で配られるフライヤーの告知は何度も目にしていたのだが、聴く機会に恵まれなかった。



フライングティーポットに来るのも本当に久しぶりだった。私の記憶では、山本達久と千住宗臣のドラムデュオ等を聴いたのが最後だったと思う。



生の演奏に関する事前の情報が一切なかった分、なおのこと期待が高まった。



休憩をはさんで、前半が、Hugues、岩瀬、渡辺それぞれのコンポジションでめいめいのソロ演奏、後半は(記憶が正しければ)コンポジション(Hugues+岩瀬)、渡辺のモチーフ提示・Hugues+岩瀬による即興、コンポジション(Hugues+岩瀬)のプログラムだった。




最初のHuguesのコンポジション/チェロソロ演奏は、摩擦音・(音楽的な意味での)雑音に彩られていた。チェロに関しては、坂本弘道、森重靖宗しか生演奏を聴いたことがないので正直なところ視聴経験に乏しい。とはいうものの、Huguesの演奏が特殊な奏法であることは理解できた。



チェロの場合、弦に当てる弓の位置は胴体に対して直角にするか、もしくは、地面に対して垂直にするかのいずれからしいが、Huguesの弓の当て方は弦の上にほとんど寝かせるような感じだった。物理的に弓と弦が擦り合う音がする。そのなかでわずかに聴こえてくる倍音、もしくは擦り合う音と倍音の区別がつかないような音がした。弦を手のひらでタッピングしながら、弓でにごった音を出すと、音の輪郭のありかが余計にあいまいになっていく。



ふと我にかえると、Huguesの前には楽譜がある。あらためて、これが即興ではなくコンポジションであることを認識する。



岩瀬久美のコンポジションは、オクターブキーを指で押さえた際のカラカラ、チリチリというノイズ、トゥルルルルルという無音に近いタンギングノイズ、あるいはブレスノイズなど、伝統的なジャズやクラシックあるいはポピュラーではどちらかといえば消極的な意味にとらえられがちな音で満ちていた。ヨーロッパ系の即興音楽家・リスナーが好む奏法だと思う。


音量を一定に保ち、音の出力を自在に制御する巧みさが際立っていた。音を発するときにも、意図的に楽器を鳴らしきることは決してなかった。後述するが、そこが最大のポイントだったと思う。




渡辺は、ラップトップのPCをメインにして、フィールド(野外)で集音した音声を繋いで編集したものを主題とした曲を披露した。表面の粗さが効果的だと感じたが、渡辺は演奏後にノイズが入っていて満足できなかった感想を漏らした。



エレクトロニクスには疎く論評する技能も持ち合わせていないのを承知で記すならば、私にとっては、ざらついた音の表面がとても印象的だった。表層的な整然さは耳に心地よいが、深く聴こうとする気がしない。無意識にそのまま音が流れて行く。しかし、表面にノイズがあれば、その音の底にあるものに関心が行き、より良く聴こうとするような気がする。





デュオ、トリオの組み合わせとなった後半、技巧的な観点から解き放たれて、演奏家が発する音の生成を純粋に感じることができるようになった。




Hugues、岩瀬、渡辺のトリオ演奏では、渡辺の提示する電子音に対して、Huguesが自身の楽器であるチェロで合わせるとき、電子音に対しておそらくは数オクターブ上下した音を奏でた(1オクターブ、あるいは半音のように感じられた時もあったが本当のところは分からない)。ときには電子音、前後して、チェロの音が通奏低音のように感じられる。そうこうしているうちに、ふたつの音が交叉していく。



最後のデュオの曲目で、Hugues、岩瀬は演奏を始める前、1分ほど下を向いて瞑想した。



その後、Huguesと岩瀬は、双方の楽器をこれまでになく鳴らしきった。



Huguesがチェロを抱えるトリッキーな奏法があったにせよ、ふたりの演奏は総じてそれまでの微音とは比較できないほどの音量と音圧だった。



目を閉じうつむいてチェロを演奏していたHuguesは、隣の岩瀬に対して音量をあげるように求める気配を感じさせた。これを素早く察知した岩瀬が、これ以上の音量が不可能なくらいの音を発していった。



Hugues のチェロも、岩瀬のアルトサックスも伝統的な奏法だった。




ごく個人的な解釈が許されるならば、Hugues、岩瀬による最後のコンポジションにすべての要素が収れん・昇華していくライブ構成だったように思う。



器楽の観点からみると、最初にチェロ、クラリネットの双方において、フラグメンツ・断片が提示された。時間を経過するごとに、だんだんと音の輪郭がはっきりとして行った。そして、最後のコンポジションでは古典的・正統的な奏法を貫いて行くことによって、音そのものの存在をはっきりと確認することができた。無論、最初のほうの演奏と最後の演奏は、まったく異なる性質のものなので語弊があるのは承知している。



しかし、すくなくとも最後の演奏の正統性が、効果的で、なおかつ劇的な表現と展開を演出したことは否定できない。



プログラムの構成の妙(たえ)が光るライブだった。


機会があれば、ぜひとも再び聴きに行きたいと思う。

超即興(内橋和久+吉田達也)+坪口昌恭  高円寺Showboat





超即興(内橋和久+吉田達也)+坪口昌恭  高円寺Showboat 1月13日


開演後に、カバンに入れたはずのデジタルカメラが見当たらずに困った。代用に取り出したスマートフォンのカメラを使ったことがなかったため、操作するのに悪戦苦闘しているうちに前半が終了してしまった。


(画像は加工が施してあるような感じですが、いつものようにトリミング等含め何もせずにそのままアップロードしてあります。)


そのようなこともあって、自分なりの記憶の仕方がうまくいかなかった。けれども、ライブ演奏は十分楽しめた。




開場前に戸外に漏れてきた音とほぼ同じ演奏が、前半のステージで再現された。ある程度のコード進行の打ち合わせがあったのだと思う。


誤解があるような表現だが、内橋和久と吉田達也の二人だけの超即興の演奏とは趣の異なる構築美があると感じた。内橋和久の変幻自在の激しいコードカッティングが長く続く、言ってみれば激しいながらも禁欲的な展開はほとんど見られなかった。



インプロヴィゼイションの要素が強かった演奏のはずだが、私にはリハーサルを重ねたバンドのように聴こえた。坪口昌恭の参加に負うところが大きかったと思う。



坪口は、主に3つのシンセ・キーボード類を使っていた。珍しくメモしたところによると、KORG KRONOS、アナログシンセのARP ODYSSEY(オリジナル)、VIRUS TIという名の機材だった。鍵盤演奏では、KORG KRONOSを頻繁に使った。VIRSUS TIは、キーボード型と、デスクトップ型(キーボードがないコントローラー)があるらしい。坪口が使っていたのはデスクトップ型のように思えた。ボコーダーの音を出すときに、このVIRSUS TIを操作していたが、接続されているのかどうかは分からなかった。


いずれもビンテージらしい。私好みの楽器であるギターでさえ、ビンテージの真価を味わえるかどうかは微妙なところなので、いわんやシンセをやという感じだ。



坪口がKORG KRONOSでソロを取ることもあれば、内橋がソロを奏でることもあり、それぞれスリリングな展開だったのだが、この日の演奏でもっとも気になったのは、ハーモニーだった。といっても、採譜することはできないし、譜面にされたものを読んでも正直理解が難しいので、ただ単に私なりの「ハーモニーの感じ方」のようなものに過ぎない。





それぞれの奏者がソロをとる際のバッキングは別として、ギターとキーボードが同時に和音を奏でるとき、ふたつのハーモニーが同時に聴こえてくるような感じがした。専門用語では、ポリハーモニーと言われるようだが、残念ながら私の感じ方に理論的な裏付けはない。



ともかく、ふたつのハーモニーが聴こえてくるのだが、音楽的な意味ではなく、あくまで感覚として、釣り合いのとれた、まったく綻びのない調べだった。



坪口がボコーダーを使用したときには、アフロアメリカン的な調子が醸し出された。だが、坪口は、どこまでも果てしなく飛んでいくという具合にはならずに、さまざまなテイストをタイミング良く抑制的に提示していった。




この態度が、超即興のふたりの音に結合し昇華していく様子は、この日の最大の聴きどころだった。

灰野敬二 高円寺Showboat 2015年12月30日


12月30日 高円寺ShowBoat 灰野敬二


2014年に続き、2015年の暮れも、灰野敬二を聴きにショーボートに行った。


この日は体調がすぐれずイスに座りながらも体の置き場に困るような感覚を覚えていた。


このため、惜しいことに、最初の弦楽器(サズもしくは、アイリッシュブズーキ?)の演奏のときは集中できずにいた。しかし、演奏を聴いているうちに段々と回復してきた。



弦楽器の演奏を終えると、灰野敬二は、ステージ最前列にある、たくさんの電子機器を並べたテーブルに歩み寄った。向かって左側には数台のCDJ(?)、右側にはおびただしい数の装置が配置されていた。



最初に単音を出した。これがしばらく続いた。この音に絡ませるように、ひとつの音を加えた。そして、またひとつ音を加えたとき、最初の音が聞こえなくなりそうになったものの、そこここに音の輪郭が見え隠れした。加えられた音は、大きく歪み振幅が激しくなっていった。安易に聴こえかねないような擬音の試みはなされていなかったはずだが、私にとっては突風や雷、波のような自然界に存在する音を想い起こさせた。ほどなく、これらの音に、ノイズらしき音の群れがかぶさっていった。そして、最初の音はかき消されていった。ループさせた音がビートを刻む。轟音も加わった。聴覚が麻痺していくように感じるころ、後から加わった音が剥がされていった。


最後に単音が残った。残った音は、最初に出した単音だったのだろうか。それとも別の音だったのだろうか。



この日の灰野敬二は、それぞれのセッティングの間(ま)を十分に取っていたように感じた。おかげでレコードの曲間のような時空間を体験できた。



エレキギターを手に取った灰野は、とても静かだった。
(ギター本体のボリュームには触っていないような記憶があるので、足元に音量コントロール装置があったのかもしれないが本当のところは分からないままだ。)
これほど音量の少ない灰野敬二の演奏を聴くのは、私にとっては初めてのことだった。
囁くように歌い、軽く触れるようにギターをつま弾いた。



左手でギターの指板を押さえたまま、左手よりもネックに近いところで弦を右手で軽くタッピングし、グリップした左手のすぐ右側でタッピングする。そしてブリッジ(弦の一番下)寄りで弦を指で刻む。
この奏法は曲を通して行われた。
静けさをたたえた趣の灰野独特のリズム感覚をうかがい知ることができた。



そして突然、ギターから轟音が放たれた。


灰野敬二は身体を鋭く上下左右に動かしながら、表現し難い熱のこもったステージングを披露した。静けさが破られる過程は、灰野敬二の秘儀なのであろう。



また、静けさが訪れた。



ギターの最後の音が、おそらくはサンプリングされて、ステージ最前列のテーブルにある無数の装置のひとつに転送された(と感じたが本当のところは分からない)。



灰野は、テーブルに陣取った。


その単音はほどなくして、多くの音をまといながら爆音となった。そして天井に消えていった。



静けさは破られるためにあり、激しさは鎮められるためにあった。



しかし、入念に演出されたステージングであるとは私には思えない。



二律背反のふたつの要素は、相互不可分を保ちながら有機的につながり、この日の前半の核と化した。



その後、ふたたびギターを弾いた後、休憩となった。


第二部は、ハーディーガーディーの演奏から始まった。終始、抽象的な音が聴こえてきた。


ハーディーガーディーの演奏が終わると、アイリッシュハープを手に取った。



優美な音色が脳幹を刺激する。


最後に「こいつから失せたいためのはかりごと」を唄った。


ほんとうに静かだった。


次の日は2015年12月31日だった。意識することもなく、すぎ去ろうとする日々を思い出した。


みそかのこの日、静寂は破られるためにあったのか。それとも、破られなかった静寂が残ったのか。

≪≪≫≫  Altered States 黄金町・視聴室

2015年12月22日 黄金町・視聴室 ≪≪≫≫(metsu)、Altered States


11月23日に神保町・視聴室で行われた≪≪≫≫(metsu)の2nd CD リリースパーティーの第二弾が、Altered Statesをゲストに迎えて黄金町・視聴室で開催された。


※ doubtmusicでの1stCDリリースパーティー



3部構成で、第一部が各メンバーの組み合わせによるデュオ、トリオでの計7組の演奏、第二部はAltered States、第三部は≪≪≫≫の演奏だった。



第一部の7組のユニットでの演奏は、予想をはるかに超えた内容のものとなった。個人的には、≪≪≫≫と、Altered Statesそれぞれのグループを楽しみにしていたので、良い意味で裏切られた形になった。




内橋和久(g)/石原雄治(ds)



内橋和久は、エフェクターを使ってさまざまな音色の長音をずっと出し続けていた。これに対する石原は、慎重に音を選んでいく。(前回レポートしたことのある)liiilのときに多用した、右に配置させたティンパニーをあまり使わなかったのが印象的だった(これは同日を通して感じたことだった)。やがて石原は弓を持ち、ハイハットあたりに装着しているマイクホルダーのような金属パーツにあてて弾いた。そして、シンバルの端でスネアをこすった。でてきた音は、内橋の長音とシンクロするような、ほんとうに不思議な伸びがあった。この感覚は、前回見たliiilのライブでの怒涛のドラミングからは想像できないような静謐なものだった。



芳垣安洋(ds)/竹下勇馬(elb)


芳垣のドラミングは、同日の彼の演奏のなかで、もっとも力強いものだった。竹下のフレットレスベースも、この日の彼の演奏のなかでは、音数の多いものだった。しかし、力と力のぶつかり合いとはならずに、ふたりの演奏の静かで微妙な変化が堪能できた。数少ない芳垣のドラミング鑑賞のなかで、この演奏は私にとても強烈な印象を与えた。いつかじっくり芳垣の演奏をライブで聴いてみたいと思った。




ナスノミツル(elb)/石原雄治(ds)

ナスノミツルのベースは、エフェクターを多用して輪郭のあいまいな微妙な音を出し続けた。ブラインドではおそらくベースの演奏とは思えないような音だった。ここに、気鋭の石原がどう対応するかが気になった。
ナスノの音に対峙するように、石原は、遅速、強弱取り合わせて、とても良い感覚でドラミングした。ときには、5連符(?)で挑発するように、ナスノの音の出方を探った。ナスノがこれに応じたときは、聴き手の私にも達成感が伝わった。





内橋和久(g)/大島輝之(g)/中田粥(bugsynthesizer)


内橋、大島の背後に座席があったためか、どれが誰の音なのか、半ば判然としないまま時が過ぎていった。もちろん、二人はまったく異なった演奏家なので、区別できない私の耳に問題があったと思う。視覚を伴わない記憶は、単なるリスナーである私にとっては不可能に近いことが良く分かった。どうなっているのかと、いろいろと探っているうちに、あっという間に終わってしまった。黙ってじっと聴いておくべきだったと思った。
だが、内橋と大島の共演を見ることができて良かった。二人の共演は、なかなか聴く機会はないと思う。




ナスノミツル(elb)/中田粥(bugsynthesizer)


ナスノミツルが不思議な音を出したのに対して、中田粥もうまく表現できないが、あえていえば茫洋とした音を繰り出した。中田粥は、配線のコードをつないだり、外したりしているように見えた。うまく説明ができない電子音だった。けれどノイズそのままというわけではない。謎めいた音という点では、7組のユニットでは一番ではないかと思う。私にとっては何度も繰り返して聴いてみて、初めてことばにできる音なのだろう。



芳垣安洋(ds)/大島輝之(g)


私の席から大島輝之の姿はまったく見えないに等しいので、どのように音を出しているかが良く分からなかった。もともと良く観察していても分からないことのほうが多いので仕方のないことだと思う。ただ、大島がピッキングをあまりしていないことだけは分かった。
ロングトーンが続いた。
芳垣は、最初マレットで軽めに叩き、それからマレットを反対に持ち、取手の方で叩いた。竹下とのデュオに比べると、芳垣のドラミングのニュアンスは微妙なバランスを持っていた。ダウンストロークよりも引く力の方が強く、余韻のあるドラミングだった。



内橋和久(g)/竹下勇馬(elb)


内橋和久みずからが指摘したことだが、ふたりの演奏家の配置が興味深かった。前に内橋が立って、真後ろに竹下が座って縦列で並んだのだが、ギターのネックと、フレットレスベースのネック、それに二人の体の向きが同じだった。
演奏も、ロングトーンの応酬となった。ただ、ぶつかりあうのではなく、補完し合うような具合に、音色の異なった長音が会場を漂流した。



1部が終了した時点で十分な満足感に浸った私は、時計を見た。20分間しかたっていないことに気付き驚いた。


そこには、1時間超の演奏を聴いたときに感じる尺みたいな時間の感覚があったからだ。それだけ密度が高く、簡潔にまとめられた音楽が展開されたことの証左なのだと思う。


それぞれのユニットの説明のなかで、うまくことばにできなかったのが悔しいが、もともと音楽をことばで表現するのは絶対に不可能だと思っているので致し方ない。
しかし、これほど緊張感が続く20分間はそう体験できるものでもないと考えている。



Altered States
内橋和久(g)
ナスノミツル(elb)
芳垣安洋(ds)

このセットの内橋は、饒舌にギターをつま弾いた。コードカッティングを多用しながらも、シングルノートのソロをしばしば取った。これ以上行くかというところで常に芳垣のドラミングが勢いをコントロールした。最初は、芳垣の意のままのドラミングなのかと思ったが、演奏前に内橋が音量制限のある会場であることを観客に断っていたのを思い出した。演奏後にも、「これ以上やると。。。」という旨のことばを内橋は漏らした。


ともあれ、この勢いをたくみに抑制する様子はグループのみごとな音作りの一面を見せていた。


ナスノミツルが、ひたすらリズムを刻んだ時間帯があった。ヘビーリスナーにとってはともかく、私にとっては稀有な体験だった。




≪≪≫≫

大島輝之(g)
石原雄治(ds)
竹下勇馬(elb)
中田粥(bagsynthesizer)


大島が近年参加するグループのうち、liiilはすでにレポートしている。liiilと同じく、石原雄治がドラムスで参加しているのが気になっていた。


≪≪≫≫は、フリージャズあるいは、インプロヴィゼイションというフォーマットが仮にあるとするならば(決して皮肉な意味ではない)、そういった趣(おもむき)をあえて踏襲したグループだと思う。ノイズ色の強い音も多用するものの、1曲まるごとノイズで通すことはなく、合間に澄んだ音が聴こえることもある。ギターとフレットレスベースが違ったベクトルを保ちながらも、軌を同じにした音圧で迫る。そこに沿うように、バグシンセサイザーの無調のコードが漂う。微妙なニュアンスを醸し出したドラムスが重層的に並び立つ。

インプロと書いた手前、矛盾した表現になるが、みごとに「構築」された音楽だと感じた。



黄金町を訪れたのは、3年ぶりだった。良い時間を過ごせて幸いだった。