志賀理江子


ブログ記事の分類に「アート」を設けているものの、5年ほど前に、大友良英の「休符だらけの音楽装置」展の写真・感想のただ一本を載せて以来、そのままになっていた。



読者のみなさんに知ってもらいたい写真家がいる。



新進気鋭といよりも、すでに功と名を上げている人なので、遅きに失した感があるのは否めない(もちろん個人的に面識はない)。



参考のために、Wikiから抜粋した経歴を以下に掲げたいと思う。




志賀理江子(写真家 1980--)
愛知県岡崎市出身。愛知県立岡崎東高等学校から東京工芸大学写真学科に入学するも半年で中退し、1999年にロンドン芸術大学チェルシー・カレッジ・オブ・アート・アンド・デザインに入学、2004年に卒業。2007年度文化庁在外派遣研修者としてロンドンに滞在。2008年、ロンドンの公営団地の住民たちを撮影した写真集『Lilly』、オーストラリアや仙台市での滞在制作をもとにした『CANARY』で第33回木村伊兵衛写真賞受賞。2009年、ニューヨーク国際写真センターインフィニティアワード新人賞を川内倫子とともに受賞。


帰国後は宮城県名取市北釜に移住し、地域カメラマンとしてお祭りや運動会などの行事を撮影しながら居住者のオーラルヒストリー作成を開始。その途中で東日本大震災に被災する。


2010年、「あいちトリエンナーレ2010」(愛知芸術文化センター)に出展。

2012年、せんだいメディアテークにて個展「螺旋階段」を開催。第28回東川賞新人賞受賞。

2013年、「あいちトリエンナーレ2013」(岡崎市康生会場)に出展。




いうまでもなく華麗な経歴だが、上記の文中にある川内倫子に比べると、志賀理江子は、写真に携わる人々やアートの好きな人以外には、ほとんど馴染みがない存在だと思う。



私自身が初めて志賀理江子の作品を見たのは、吉祥寺の古書店「よみたや」で見つけた写真雑誌だった。その2年後に写真集「螺旋海岸」(2013年)を購入したことがきっかけとなり、志賀理江子のファンとなった。



ネットでいろいろと画像が出回っているが、Jpegの画像をブラウザで眺めたとしても、おそらくは何も伝わってこないであろう。(YouTubeやYou Streamでライブ録画を眺めてもライブ演奏の“本当の価値”が分からないのと同じことだと思う。)



ご興味があれば、写真集「螺旋海岸」を手に取ってページをめくってもらいたい。大きな図書館や本屋か、アートが強いブックストアならば、扱いがあると思う。



自身が被災した後に活動拠点である仙台で開いた2012年の個展「螺旋階段」(於 せんだいメディアテーク)以降、日本の写真文化において、写真家・志賀理江子はさまざまな意味で議論を呼ぶ存在となった。


そうした議論を提起するものも含めて、さすがにすべてに目を通すだけの情報網はないながらも、いくつかの論評に目を通してみた。しかし、志賀理江子の写真が私個人に与える影響について、うまく説明してくれるものは存在しなかった。



そこで、志賀理江子自身の話を聞きに、トークイベントを訪ねた。



7月5日(日)「写真が抗(あらが)うもの」
志賀理江子×朝吹真理子(小説家)
東京港区・IMA concept store(amana)


休憩なしの2時間の対談は濃密で実の多いものだった。
  


以下、志賀理江子が語ったことと、志賀について語られたことのうち、とりわけ私の胸に響いた言葉を抽出・編集して文章化したいと思う。





            イメージについて

「空の棺に黒いベール(喪衣)が掛かっている」とかつて解釈されたことがとても心に残っている。それは、死者のための儀式であるけれど、棺の中に遺体があってはならない。空(から)であることが重要だ。それによって、私の心の中の誰かが立ち上がってくる。



       写真集『螺旋海岸』の撮影時に、穴を掘り続けた

撮影中に穴を掘った。
穴をずっと掘っていても、「そこ」はずっと「そこ」に留まっていた。


私自身の中には絶対に自分では分からない何かがある。
私はそれを感じてみたい。
ことばでは分からない、理解ができないことなのかもしれないが、ぜひとも知りたい。
それはおそらく、自分が住んでいる世界の実存ではなく、自身が感覚として捉えられない不在の、あるいは心のうちにある問題だと考えている。



             写真について

(写真を撮るとき)裸眼では見えないイメージ、すなわち領域が浮かび上がる。自分の秘密を知りたい(という思いで撮っている)。



            撮影現場について ※

私にとって、写真は演劇性の強い儀式だ。
だから、写真の中に演劇性を創って行く。



            スピリットを呼び込む

何が失敗か、成功かは分からないが、失敗したと思う時もある。
目に見えないスピリットをカメラの前で呼ぶ。実際に大声で叫ぶこともある。
けれど、やはり来ない。
しかし、イメージと自分の体が通じ合う瞬間もある。

悪い意味ではなく、私は自分が呪われていると感じる。



            撮ることと祈りについて

写真は、真面目な願掛(がんか)けだ。作品を撮るということ自体には何の価値もないのかも知れない。
だが、「撮る」という行為は、祈りに似ている。
宗教で手を合わせるのに近い。
実際、制作時に、手を合わせて祈ることがある。
それは、特定の宗教を示すものではなく、原始的な「信じる」という営みだ。

私の場合、手を合わせる行為は外には向かっていかない。
内に向かっていく。
すべては、己のことなのだ。空(から)の棺は、私自身の身体にあるのだから。




※「撮影現場について」は、近作の「螺旋海岸」を一読後に参照していただければ、技法としてのセットアップの類ではない、動画のひとこまを抽出したような志賀作品の数々の背後に潜む秘事を理解してもらえると思う。




(筆者の感想)


「偶然」は神あるいは、カミの領域であると私は常日ごろから考えている。私たちは、決して「偶然」を人為的に作り出すことはできない。


しかし、それを何らかの方法で呼び出すことができる瞬間がある。

そのとき、「偶然」は、「寓意」の衣を纏(まと)い、私たちにさまざまな問い掛けをする。


それは、芸術が芸術足らんとする瞬間であると私は感じている。



この日の志賀理江子の話を聞いて、そんなことを考えた。