かみむら泰一、蜂谷真紀、村田直哉、日野了介、吉本由美子 インプロセッション 下北沢アポロ






かみむら泰一(Sax)、村田直哉ターンテーブル)、蜂谷真紀(Voice)、日野了介(B)、吉本優美子(g) 下北沢アポロ






かみむら泰一のフェイスブックの告知で、この日(8日)のインプロセッションを知った。
組み合わせに大いに興味をそそられた。

昨年はたった2回しかライブに行かなかったので、今年は「これではだめだ」という気持ちになってなるべく多く行くようにしていた。

別に義務感からそう考えたのではなく、50歳を目前にして急速に体力が落ち込んだ結果、一リスナーとして生の音楽と対峙する気概がなくなりつつあると思ったためだ。

あと一か月ちょっとで年の瀬だが、まだ時間は残っている。2013年の終わりにかけて、昔から聴いていたミュージシャンのライブに加え、まだ聴いていないミュージシャンのライブにも行きたいと思っている。


前置きが長くなってしまった。

実はこのライブでは、かみむら泰一以外は生で聴いたことがないミュージシャンたちだった。なかでも蜂谷真紀は、良いミュージシャンと演奏することが多いので、今まで聴きに行かなかったのが不思議なくらいだ。しかし、女性のヴォイスでは、Junko(ヴォーカルでは工藤礼子、佳村萌、朝生愛)しか聴いたことがなかったので、正直この分野は疎い。



仕事の打ち合わせがあったため、開演に間に合わず、ちょうど村田直哉と日野了介のデュオの最中にライブ会場に入った。やはり、インプロのライブは初めから聴かないと、私の場合はついていくのが難しい。

どぎまぎしていると、かみむら泰一がここに入った。そして、カウンターに座っていた蜂谷真紀が合流した。


最後(だと思う)に吉本裕美子が参加する。


蜂谷真紀は、巫女のようだった。いや、何かに憑りつかれているようだった。

これをシャーマニズムと呼んでよいのか。


呪術的というか、祈祷的な要素が感じられた。原初的で根源的なヴォイスだった。


ときおり、私が好きなLena Willemarkの発声を感じさせるところがあるが、錯覚か偶然の一致だと思う。



独断と偏見で言えば、ターンテーブルを含めた他の楽器も、蜂谷のヴォイスに応じて、声を出そうとしているように感じられた。

伸びやかであったり、絞りだした声であったり、うめき声だったり、いろいろ感じられた。



私は、横文字が苦手なのだが、敢えて英語で表現すると、この日のライブ全体を通した印象は、collectiveであり、かつsubtleだった。

あるいは、喧噪でありながら、静謐だった。

濃密でありながら、微妙だった。




2部の開始前に分かったことだが、おそらくはコード進行が記されているメモ書きを見ながら、1〜2分程度の打ち合わせをしていた。ただ、その割には、進み方が滑らかで、何度かリハをしているだろうと思わせる内容だった。



インプロセッションでは、緊張感があり切迫する場面も多々あるが、この日のライブは、そういった約束事や先入観を含めた、いかなる束縛からも解き放たれたものだった。端的に言うと、とても自由だった。



蜂谷真紀は、細長いライブ会場を縦横無尽に動き回りながら、謡っていた。はたして、それは舞踏であるのか、祈祷であったのか。



かみむら泰一のサックスは、微妙なニュアンスで勝負していた。小さな音量でここまできめ細かい表情を出せる奏者はあまりいないのではないか。



吉本裕美子は一聴すると、エフェクターの音色がBill Frisellを思い出させたが、良く聴いてみるとまったく別の音だった。人間の声を絞り出しているように聴こえた。
欲を言うと大音量ではどのような音を出すのか興味が湧いた。



日野了介は、恥ずかしながら名前を知らなかったが、良いベーシストだ。抜群の音程で、アルコも良い。ダイナミクスのレンジが広いと感じた。前半の村田直哉とのデュオをもって聴きたかった。



村田直哉は、良い意味で曲者(くせもの)だ。外山明が、ターンテーブルを操ったらこうなるだろうという感じになった。
(自分でも意味が分からないが。。。)


一部の終わりで、シャンソンのレコードに針を落としたのだが、これが見事なエンディングとなった。そうかと思うと、二部では、静謐な演奏の中で突然、スインギーなビックバンドのマックザナイフを大きな音量でかけた。

蜂谷真紀は、見事なスキャットで反応した。トレーニングし尽くしたレベルのスキャットだった。




それはともかく、このメンバーのセッションには、中心を貫く流れがあるように感じられる。


予定調和ではない調和があるとすれば、それは、まさにそうした類のものだ。