一楽誉志幸、佐藤正治、高良久美子  吉祥寺 Foxhole






佐藤正治、一楽誉志幸、高良久美子 Foxhole 吉祥寺

この文章を書いているのは、拙宅の近くのファミリーレストランだ。

着席して隣を見ると、なんと渋谷毅さん(の御家族とお知り合い)が座っているのに気付いた。

驚いた。

渋谷さんのライブを最後に聴いたのは14年前だが、いつもCDは聴いている。
そうこうしている間に、10年以上が経ってしまった。

前に書いていたブログでは、渋谷さんの「月の鳥」(それに故・宮沢昭とのデュオ「野百合」)を絶賛した。その気持ちは今でも変わらない。


話が逸れたが、今回聴きに行ったライブは、一楽誉志幸のフェイスブックの告知で知った。

メンバーは、佐藤正治(Ds, effect)、高良久美子(Vib, Per)だった。

佐藤正治は、4年前にヒカシューで聴いて以来、高良久美子は2006年に聴いた大友良英のオーケストラ以来7年ぶりだった。

一楽は、2年ぶりだった。彼については、このブログでも過去に書いている。

今回のハコは、先日、内橋和久が山本達久とデュオで演奏した場所だ。
(絶対に聴きに行くと思っていたが、行けなかった。私の場合、そういうライブは星の数ほどある。)


佐藤正治は、ヒカシューでの完成度の高いバンドサウンドで聴いていたが、インプロでどのように展開させるのか楽しみだった。

最初のセットは、一楽・佐藤のデュオだった。

演奏が始まって気付いたのは、とても芯のある深みのあるドラムを叩くということだった。

一音一音に核となる芯があるような感じの音だった。

ドラムセットはカスタムメイドのようだが、セッティング云々の話ではなく、彼の技術がそうさせているのであろう。

オーソドックスなドラミングかと思っていると、バーサタイルな展開も思うままだった。

演奏が始まった当初は、一楽誉志幸のドラミングとの親和性はどうなのだろうか、と感じていた。

私の場合、ツインドラムは、スリリングな展開の時は良いが、ゆっくりしたテンポだと取ってつけたような感じがするのだが、佐藤と一楽は絶妙なタイミングで間合いを取っていた。


佐藤正治が、存在感のある音を多くもなく少なくもなく繰り出すと、一楽誉志幸が、音の隙間を埋めるように軽やかに紡いでいく。

一楽は、カウベルなどの金具類をスネアの上に置いて、ドラム演奏中に叩くのだが、この自然な流れは他のドラマーには見られない類のものだ。たとえ、パーカッションに秀でたドラマーでも、ドラミングの途中でドラム以外の器具を叩く場合は演奏が途中で中断するような印象を受けてしまう。ところが、一楽の場合はすべてがつながっている。
稀有な才能だと思う。

私は、彼のドラミングに、クリフォードジャーヴィスの面影を感じてしまう。
(本人が影響を受けているとは思えないが、そうした妄想もリスナーとしての大きな楽しみだ。)

コンサート会場以外で、ヴィブラフォンを聴くのは初めてだった。

高良久美子ヴィブラフォンは、アタックの感触が判別できないような軽やかな音色だった。PA無しの生音はやはり素晴らしい。音楽家の人となりさえも表すような趣がある。

最後の曲では、トリオとなったが、私の中では、佐藤、一楽それぞれとのデュオが白眉だった。

高良は、それぞれのドラムスに対してまったく異なった演奏・アプローチをした。

インプロの世界では当たり前といえば当たり前のような気がするが、洋の東西を問わず、そこは属人性というものがあり、異なったスタイルの奏者と演奏していても、どこかで相似性や近似性が出て来て、これぞ○○○○の演奏となる。それは個性ともいえるし、スタイルともいえる。

高良は違った。

しかし、私自身がそう感じただけのことであって、うまく言葉で表現することができない。

敢えて言えば、一楽のときには、軽やかな変拍子で疾走する一方、佐藤と演奏したときには、一音一音が重く佐藤のドラムングと対峙した。

そして、それぞれのドラムスとのタイミングの取り方がまったくことなり、同じ奏者とは私には思えなかった。






観客は、ミュージシャンらの音楽関係者を含めて6人だった。



「いつものように多くの人が幸福な時間を共有する機会を逃している」と、ふと思った夜だった。