Todd Neufeld   蓮見レマ   本田珠也  新宿ピットイン


















































7月23日 新宿ピットイン
Todd neufeld(g)
蓮見レマ(pf)
本田珠也(ds)

昨年、TPTトリオの一員として来日したTodd neufeldが、ピットインでライブを行うというので聴きに行った。

TPTトリオの公演には行けなかったこともあり、生で聴くのは初めてだった。

予備知識としては、彼が参加していた、Tyshawn Sorey(ds)のアルバム「公案」(koan)を聴いていた。

良いアルバムだと思ったが、おそらく生演奏はまったく別のものであろうという予想も手伝い、行く前から楽しみにしていた。

本田珠也は2度ほどライブで聴いていたものの、蓮見レマについては、恥ずかしながら名前さえも知らなかった。

本田珠也は、前面に出ることなく、共演者との「対話」に徹していたが、とても良い演奏だったと思う。安定していて、ここぞという時に絶妙のアクセントを入れ、演奏をメロディアスなものにしていた。

最初に聴いたのが1999年(2000年だったかもしれない)で、その時には菊地雅章のピアノに挑みかかるようなドラミングが印象に残っており、次に聴いた内橋和久とのデユオでも、強烈なドラム演奏だったのを覚えている。

前へ前へと出ようとする積極性を私はドラマーに求めてしまうが、今回の本田珠也の演奏は、派手さはなかったが、とても良かった。私の体にすんなりと入ってきた。

蓮見レマについては、私が普段聴いているピアニストらの影響を大きく受けていると感じた。

自身のサイトでは、ニューヨーク市大在籍時に、john HicksやGeorge Cablesから多大な影響を受けたと記してあった。二人とも私が20年前に、毎日のように聴いていた大好きなピアニストだったので奇遇に感じた。菊地雅章の影響も受けたとあったが、確かに時折、それらしきフレーズや和音が聴こえてきた。

ゆっくりとした演奏では、心地の良い柔らかさや繊細さが感じられた。蓮見レマの神髄はここにあると思っているうちに、突如として繰り広げられた激しい演奏も相当なものだった。私はどちらかというと彼女の力強い演奏が印象に残った。

ピアノの弾き語りをするというので楽しみにしていた。

最初の弾き語りは、アーネット・ピーコックの曲だったと思う。次が、リンゴ追分、そして五木の子守唄。ジャズの世界では、とりわけアフリカ系のプレーヤーやグループが日本の歌をジャズアルバムに収録していが例は珍しくない。蓮見レマの歌とピアノは、原曲の形を見事に崩して、新たに再生しているかのようだ。日本の歌曲を見直そうという機運が日本国内で出て来て様々な試みが行われている折、蓮見レマの演奏は興味深く、秀いでていると感じた。

Todd Neufeldは、まぎれもなくリーダーだった。最初の曲が始まったときしばらくの間、彼は、音と音の間を聴こうと試みていたように感じられた。根拠はないが、少なくとも私にはそう感じられた。

彼は、音の流れを注意深く探っていた。それは、聴こえるものをより良く聴くという姿勢であるとともに、いまだ聴こえない音を聴こうとする態度でもあった。時には敢えて弾かないという姿勢であり、また別の時では、思い切って音を出すという行為であった。

根本にあったのは、聴くという行為だった。

それがグループ内に浸透していた。

Todd Neufeldは、ほとんどエフェクターを使っていなかった。足元にはわずかに2台のペダルがあるのみだった。私の記憶では、そのペダルさえもほとんど踏んでいなかった。

ピックも使っておらず、スケールを弾く時にはアルペジオを用いていた。指の腹で出す音は、参加アルバムの「公案」よりも滑らかで、音の強弱がくっきりと出ていた。エレクトリックギターでダイナミクスを表現する試みは、ベテランでも困難を伴うものだが、彼は難なく表現した。「公案」では、このダイナミクスがほとんど再現されていないか、もしくはTodd Neufeld自身がそうした試みを放棄していたように思われる。

とにかく彼は、聴くという行為を、弾くという行為に有機的に連動させている音楽家だった。
聴くという行為は、即興演奏において、もっとも重要な要素であり、姿勢ではないかと痛感させられた晩だった。