bject: 大蔵雅彦 秋山徹次 ユタカワサキ     徳永将豪 河野円 水道橋Ftarri



bject: 大蔵雅彦 秋山徹次 ユタカワサキ     徳永将豪 河野円
水道橋 Ftarri


以前の職場が水道橋のFtarriから徒歩で1分くらいのところにあったので、何度かCDを買いに行ったことがあった。だが、ライブを聴くのは初めてだった。



最初のセットは、徳永将豪(サックス)と河野円(テープレコーダー?ミキサー?わかりませんでした)だった。


私は、エフェクターを含めて、電子音や電子音楽には疎く、言葉で説明するのが苦手なので、なるべく簡潔に表現したいと思う。もちろん、ながながと書く方が易く、簡潔に書くには相当の知識がなければならないのは承知のうえで、使うべき言葉を持たないという不便さを紛らわしたいと思う。




徳永将豪のサックスは明らかに電子的に増幅された音だったが、ごく自然に聴こえた。河野円の音は、とても静かだった。


サックスが、フラジオトーンを奏でると、これが残響として会場に漂い、河野円が出す電子音とシンクロする。時々、どちらがどちらか分からなくなった。




この日のメインである、bjectのセットでは、最初のセットで最小限に落とされた照明が再び元に戻り強くなった。


ユタカワサキのアナログシンセサイザーのノイズ音は、控えめだった。大蔵雅彦は、サックスのマウスピース/リード部分のみを取り出して、蛇腹のホースにつなげていた。ホースは、長いものではなかったと思うが、途中で三股に分かれて十字型になっている。その横に枝分かれした二股を手で押さえて調整しながらマウスピースを吹いた。


とても微妙な音だった。


一般論でいうと、音は、物質の摩擦などが、空気の振動が音波となり、われわれの耳に入って脳で情報処理されて認識される。大蔵雅彦の演奏は、空気の振動そのものだった。マウスピースを通った息が、蛇腹のホースの突起に当たって振幅し、気中に放出されるという極めて物理的な道理をそのまま再現している。


しかし、私は次第に、これを楽音として認識し始めた。



大蔵雅彦の音が、ユタカワサキのアナログシンセサイザーのノイズ音と共鳴し合って、非楽音を構築する。


秋山徹次のギターは、弓などを弦に挟んで、ひたすらミュートされた音を繰り出した。プリペイドといってしまえば、それで終わりなのだが、ハーモニクス奏法であっても、エフェクトを使っていても、ミュート音を強調したものになっていた。ディレイ、ループを使っていたものの、特筆すべきは、アンプで増幅される音の残響を拒む音であったことだ。


ギターの音は、明確な音(サウンド)の再現を避けていても、楽音として認識せざるを得ない。秋山徹次のギターは、楽音と非楽音のあいまいな境界線にある音だった。


秋山徹次のギターの非楽音的な響きが、大蔵雅彦のサックスとユタカワサキのアナログシンセサイザーの非楽音と混ざり合う。そして、私が秋山徹次の楽音を認識したときに、全体の演奏が楽音として成立した。



気付くと、大蔵雅彦のサックスも、ユタカワサキのアナログシンセサイザーのノイズ音も楽音として認識できた。



とても数奇な音楽体験だった。