さりとて














2009年12月27日

明大前・キッドアイラクホール

さりとて:佳村萌、杉本拓

宇波拓、秋山徹次

「さりとて」のファーストアルバムを聴いてファンになり、暫く経った昨年の暮に、初めてライブを見に行きました。

佳村萌の消え入るような歌声、調性を拒否するかのような杉本拓のミニマルなギター。

ポスト商業主義「歌謡」の最右翼。



世阿弥の「花鏡」の一節を引用します。

古文が苦手な方は飛ばしてください。あとの解釈からお読みください。

「見どころのひはんに云、せぬところが、おもしろき云事あり。これはしてのひする所の安心也。まづ、二曲をはじめとして、立ちはたらき、物まねの色々、ことどとくみな身になす態也。せぬ所と申すは、そのひまなり。このせぬひまはなにとておもしろぞと見所、是はゆだんなく、心をつなぐしやうね也。舞をまひやむひま、音曲をうたひやむところ、そのほか、こと葉、物まね、あらゆるしなじなの、ひまびまに心をすてずして、用心をもつ内心也。この内心の感、外ににほひておもしろきなり。かやうなれど、此内心ありと、よそに見えてはわかるべし。もしみえば、それは態になるべし。せぬにてはあるべからず。無心の位にて、我心をわれにもかくす安心にて、せぬひまの前後をつなぐべし。是すなわち万能を一心につなぐ感力也。」



「せぬところ」とは「せぬひま」です。現代語に言い換えると、「しないところ」とは「しない瞬間=とき」です。

舞踏における静止の瞬間、音曲における沈黙の刹那を表します。

「芸術がそのいのちともいうべき表現を自ら否定して無に帰し、動きを殺して寂寞に還った刹那である。つまり、表現なき表現、表現の空無というべきであろう。表現を離れて芸術はない、とはおよそ芸術哲学の基本命題である。しかも、この表現の無たる『せぬところ=しないところ』に限りなく深いおもしろさ(=興味深さ)があり、美の法悦境があるというのである。(中略)『せぬところ』とは、かようにして畢竟、芸術家の生命が無限の多彩な変化の機微をひそめて、太古悠遠の静けさにおいてある刹那の相である。」(東山文化の研究 芳賀幸四郎著 昭和20年)

「せぬところ」は、私の好きな即興演奏家やジャズ演奏家たちすべてに当てはまる言葉です。 

さりとての演奏には、強く「せぬところ」と「せぬひま」が感じられます。